「クローズリスト」のおかげで、ちょっとずつ絶望する日々を抜け出した
私は、いろんなことを「明日」に押しやる習慣があります。
プライベートでは、
・本が届いた。早速、明日読もう!
・これブログ化できそう。明日、ブログを書こう!
仕事では、
・このお返事は明日しよう
・この依頼、急ぎっぽいからすぐ(明日)やろう
といったかんじに。
今日だって、昨日の時点では明日だったのだから、その可能性と余白は今日と変わらないはずなのに、今日入らないタスクを気軽に明日にまわしてしまいます。
それほどまでに、私にとって「明日」は可能性と余白に満ち溢れているもののようです。
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そうして迎えた、昨日の時点では明日だった「今日」は、可能性も余白もそうありません。
だって「今日」だから。
到底こなせないタスクを抱えた今日は、どれだけ頑張っても、「これは入り切らないな…」というタスクの山がずっと意識の隅に存在して、ちょっとずつ絶望していきます。
確かにたくさんのことを行ったのに、絶望感で一日を終えるのって、とても不幸なことですよね。
そしてまた、疲れた思考で、「このタスクは明日にしよう!」と、明日に追いやってしまうのです。
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そんな繰り返しを止めてくれたのが、クローズリストという考え方です。
一般的な意味としては、こちら。
仕事は「ここまで!」と制限するラインが引かれたリスト。一度クローズしたら、基本的にリストに新しい仕事の追加はできない。─マニャーナの法則
タスクシュートクラウドというタスク管理ツールの使い方のコツを調べるときに出会い、下記意味合いで用いています。
- その日の予定とタスクが、見積時間とあわせて一覧化されてる
- 見積時間の合計が、活動可能時間に収まっており、また息抜きの時間を設ける余裕がある
- 作成したら主要な要素の追加を行わない
- タスクの追加を行う際は、同時に諦めるものを決める
クローズリストを作るのに20分掛かることもあるのですが、それでもやる意味を感じるほどの変化を実感しています。
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変わったことはいろいろとありますが、そのポイントは、「予定」と「実行」が区別されたことかなと思っています。
クローズリストを作ったタイミングで、「その日」にどれだけのタスクを行う予定にするかが決まり、ここで「これだけしかできないのか」というちょっとした絶望を味わうことがあります。
しかし、実行段階に移れば、一つずつタスクを行い、今日のゴールに迎えているという前向きな気持になることができます。
一日を通してちょっとずつ絶望していくことはなくなり、一日の大半を気持ちよく過ごせるようになったのです。
「人に伝わる言葉」を育てるため、ブログを書く
特別お題「わたしがブログを書く理由」
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突然ですが、「個人言語」という考え方をご存知ですか?
最近読んだ本から引用しますと、
自分だけの感情とか、自分の考えたことを表現するときには、自分特有の感覚でもって言語表現をしているんですよ。それが個人言語です。
だから、相手の気持ちなんて、そう簡単には理解できるわけない、お互いに。よくね、親は自分の気持を分かってくれないと言う人がいますけど、それはあたりまえの話で、その人は自分だけの感覚でものを言っているんです。親であろうと他人です。感覚も経験も知識も違う人間だから、本来そんなの分かるわけないんですよ。
from 『出口汪 現代文講義の実況中継(1)』
とあります。
私はこの「個人言語」を、感覚や感情などのニュアンスが含まれ、本人の内だけで使うのに重用する一方、他者とのコミュニケーションに用いると、意味合いがなかなか伝わらないものを呼ぶ言葉として使っています。
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私は日記が趣味なのですが、そこには、たとえばこんなことが書いています。
・気持ちのテンポが上がった
・今朝の調子は「身体2・思考3」
きっと、みなさんは聞き馴染みがないどころではなく、どんな状態かすら捉えることが難しいと思います。私が独自に定義して使っている言葉ですから。
ちなみに、気持ちのテンポは、時間の過ぎる感覚のようなものであり、日常生活では一定に保ちたれるべきものなので、「気持ちのテンポが上がった」というのはネガティブな意味合いになります。
「身体2」というのは、引っ掛かりのない良くも悪くもない状態、「思考3」はシングルタスクができる、ちょっと良い状態となります。
これらの用語は、個人言語の代表例ですが、こうした独自の言葉だけでなく、「とにかく書けばOK、深めたり整理するのは余裕があれば」としている日記全体が個人言語の集合体といえます。
私にとっての日記は、自分への解像度を高めて、自分を調えたり、自分の思考を整理するためのものです。それを行いやすくするために、自分の内に触れるためのものとして、私の個人言語は発達してきました。
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個人言語で考えることはとても便利なのですが、気づいたことや感じたことを人に伝えるのには適していません。
独自の用語は、文脈に応じて別の言い方に置き換える必要があり、だいたいが何文にもなります。また、個人言語は、感覚が主体で、論理はだいたいであるため、論理の骨子を補う必要もあります。
業務に関することや友達と話すことなど、機会があるものは日常的に変換が行われるため、個人言語と一緒に「人に伝わる言葉」も育つのですが、日常に機会がないものは「伝わる言葉」がなかなか育ちません。
しかし、「必要はないけれど人に共有したいもの」があります。日記やタスクシュートのこと、読んだ本のこと、自分の感覚や世の中の見方が変わった体験のことなど。これらの話がしたい気持ちがある一方で、ハードルの高さを感じて話題にすることを控えてしまいます。
「このハードルの低くしたい」という思いから、「伝わる言葉」を育てる場所として、ブログをはじめましました。
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この記事が3記事目ですが、だいたいこういうことを書こうということを個人言語で決めてから、「伝わる言葉」に変換するのに大変時間を要します。
「だからこそのブログだ」というちょっとした決意を胸に、ブログを続けていきたいと思います。
「業務に集中できる状況」が回復手段になるという、気づいてみれば当たり前の体験をしました。
朝の時点で今日はてんてこ舞いになりそうだなという幕開けでした。
先週の段階から予定されていた今日中のタスクに、週末に届いた当日中対応が必要となるメールの数々。電話対応や打ち合わせの合間を縫うようにして、通知に目を通して今日の予定を立て終わる頃には、始業から2時間くらい経っているという状況。
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脳内の認知資源をガッツリ削られて迎えた昼休み。
今日は、「現代文の勉強をやろうと思っていたな」と思い出した上で、「いや、休憩に全振りしよう」と即断するくらい疲労感を感じていました。頭の中がパンパンで、脳内の歯車が空転しているような感覚。
ぼーっとしたり、小説を読んだり、漫画を読んだり、少し歩いたりするも、仕事の対応がチラつき、何に対してもシングルタスクができず、回復した気がしませんでした。
「今日はまだ長い、自分を頑張らせすぎたら息切れしてしまう」という危機感めいたものもあり、回復に繋がることは何かと考えますが、回復に繋がるイメージを持てるものはありませんでした。
半ば策が尽きた気持ちで、ならばどうしても考え続けてしまう「仕事」をやるか、と仕事に手をつけてみると、すぐに集中して、疲労感や不快感がなくなりました。
昼休みでチャットツールを閉じていて、さらなる刺激が入ってこないという環境だったのと、短時間で終わらせなきゃと焦らずに自分のペースで仕事ができたのが良かったようです。
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頭がパンパンなら、頭の中のものを軽くすることが重要。
そのために業務に集中できる状況を整えることが負荷の軽減や回復につながる、という気づいてみればなんとも当たり前な気づきを得ました。
母からラベンダースティックが届いた。苦手だった香水を買いに行った。
こんばんは、さっちです。
先日、田舎の母から「ラベンダースティック」が届きました。
私が上京してしばらくしてから、母の毎年の習慣になったようで、近年では自宅に友達を招いてみんなでラベンダースティック作りの会も開いているようです。
ラベンダースティックというのは、こちらの記事のもの。
(私も、今回この記事を読んで、作り方を知り、やってみたくなりました)
何年も前に実家に帰省したときに見せてもらうことはあって、「かわいいなぁ、おしゃれだなぁ」と思いつつも、"素敵な暮らし"とは程遠い生活をしている自分には縁遠いもののように感じていました。
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そんなラベンダースティックが、今年、我が家に届けられました。
「かわいいけど、縁遠いもの」という印象のままだったラベンダースティックは、香りを楽しむものではなく、観賞用として、テーブルの上のティッシュケースに立てかけられることになりました。
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ある日、在宅勤務中に、頭がパンパンになって、心拍数が上がってきて、「ちょっと休憩を入れた方がいいな」と思ったとき、ラベンダースティックが目に入りました。
茎の部分を手にとって、膨らみのある部分を鼻の直ぐ側に寄せて、匂いを嗅いでみました。
フローラルさを包むような草の香りがし、地面から浮かび上がった気持ちと思考を、地面につないでくれるような落ち着きを連想させてくれました。
そして、何度か深呼吸。
香りによるリラックス効果を体験しました。
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アロマやお香を使ったこともあるし、夫も香水を使いますが、胸が香りで埋め尽くされてしまうようで苦手意識があったのが、ラベンダースティックのおかげで、香りに対する感じ方・捉え方が変わりました。
それは、山菜が嫌いだったのに、美味しい山菜を食べたら、味わい方が分かったのか、山菜全般が食べられるようになったときのようでもあり、
同じポーズにもなれず痛いばかりで大嫌いだったストレッチが、コロナ禍の自粛生活で「さすがに身体を動かさなきゃ」と久しぶりにやってみたら、家で一人でやるのが良かったのか、超超超硬い人向けを選んだのが良かったのか、ストレッチの良さを知り、ストレッチの良さを友達に語るようになったときのようでもあります。
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香りによるリラックス効果を体験した私は、苦手だった香水を買いにお買い物に行きました。
オフィスやお出かけにラベンダースティックを持っていくことは気が引けますが、香水を身にまとえばいつでも香りの効果を受け取ることができるますもんね。
初めてのお買い物は、いろんな香りを嗅いだものの決めきれずに、夫が気に入った香りを購入し、それを一緒に使わせてもらっていますが、日常生活で疲れや焦りを感じたときに、自分のペースを取り戻すきっかけになっています。
香水をつける人のどのくらいの人が、この感覚や体験を大切にしているんでしょう。
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小さな変化ですが、たった一つの体験が、自分の感覚や世界の見え方を変えてくれる経験でした。